
この十数年で急速に変化した中国。今や治安が良く、無人の自動運転タクシーが街中を走り、スマホひとつで生活のほとんどが完結する国になりました。しかし20年前の中国は、今とはまったくの別世界だったのです。ネットもウィチャットもなく、日本との連絡手段は超高額な国際電話か、いつ届くかわからないエアメール……。
そんな、日本人が住むには「不便の極み」だったとも言える時代、中国に渡った駐在員家族(筆者)はどのような思いで日々を過ごしていたのでしょうか。この記事では、筆者が2004年に初めて経験した中国本土での生活を振り返りながら、さまざまな出来事に一喜一憂した「20年前の中国駐在妻の生活」を一部、ご紹介します。
あの頃を知る人には懐かしく、また知らない人には新鮮な驚きを感じていただけたら幸いです。
目次
1.日本は遥か彼方。かけた国際電話はひと月8万円
2.チョコレートは「嗜好品」?
3.日本人ネットワークだけが頼みの綱
4.一時帰国しないと“浦島太郎”に
5.それでも毎日はとてもエキサイティングだった
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日本は遥か彼方。かけた国際電話はひと月8万円
今やウィチャットやLINEを使えば、日本の友人や家族と無料で通話ができます。しかし当時は、そのような便利なツールはありませんでした。2004年、中国から日本へ電話をかけるには、3分で400円以上もかかっていたのです。
滞在先の住まいが決まるまで、私は駅前のとあるホテルで生活していました。友達もおらず、やることもない中国のホテルでの毎日は、まるで軟禁状態のようでした。
今となっては信じられないことですが、当時、鉄道駅の近くのホテルは「農民工」と呼ばれる出稼ぎ労働者で溢れ、治安も決して良くはありませんでした。子どもたちがお金をねだりに来ることもあり、そのような環境に慣れない私は、ほとんどの時間をホテルに引きこもる毎日を送っていました。
その結果、寂しさに負けて何度も日本に国際電話をかけてしまったのです。気をつけてはいたつもりでしたが、その月の電話代請求額は8万円にもなっていました。
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チョコレートは「嗜好品」?
私が住んでいたサービスアパートの徒歩圏内にあったスーパーは、いわば“ザ・地元スーパー”でした。同じ市内にジャスコがあったものの、そこへ行くにはタクシーに乗る必要がありました。しかし、配車アプリなどない時代の中国ではタクシー争奪戦が熾烈で、「先に助手席を奪った方が勝ち」という暗黙の了解があったほどです(※運転手さんと助手席で二人きりになった後の気まずいこと……)。
一般市民が買い物をする市場は立派でした。「わあ、大きいカエル!」「わあ、生きたニワトリ!」とワクワクはするものの、残念ながら私はそれらを捌き、おいしく調理できるほどこなれた人間ではありません。やむなく近所のスーパーで、見たことのない魚と、カチカチに凍ったむき出しの肉のどちらを買うか悩む日々でした。
また、「チョコレート」がショーケースに飾られ、鍵がかけられていたことにも驚きました。購入するにはなんらかの用紙になんらかを記入する必要があったのです。拙い中国語で四苦八苦し、なんとか手に入れたそのチョコレートは油と砂糖で固めたような味がして、思わず吐き出してしまいました。しかし今となっては、それも懐かしい思い出です。
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日本人ネットワークが頼みの綱
今や、ほしい情報があればインターネットで簡単に手に入ります。しかし2004年当時は事情がまったく違いました。頼りになるのは、日本から持参した『地球の歩き方』と、現地の知り合いからの情報だけ。限られた極わずかな情報を、日本人同士で広く共有していたのです。
そのため、日本人の数は決して多くないはずなのに、外出先では必ずと言っていいほど日本人に出会う、という不思議な現象が起きていました。
もっとも当時は、家族を帯同する駐在員がまだそれほど多くなかったせいか、海外生活でよく聞く「狭い日本人社会でのいざこざ」といったものが起きることはほとんどありませんでした。むしろ、限られた日本人同士で助け合い、平和に暮らせた幸せな時代だったのかもしれません。
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一時帰国しないと“浦島太郎”に
今では中国にいながら日本のテレビをリアルタイムで見ることができますが、当時はNHK以外は見ることが出来ませんでした。そんな私たちの楽しみといえば「朝の連続テレビ小説」。毎晩、友人たちとその話題だけで1時間は盛り上がれたものです。
また、ニュースに登場するNHKアナウンサーに“推し”を作ったりもしていました(笑)。
当時はまだYahooが使えたため、日本の情報はYahooの「閲覧可能」ページから得ていました。家族や友人ともYahooメールでやり取りしていたのですが、なんらかの“大人の事情”でYahooが遮断されるたびに日本の情報も同時に遮断され、まるで「陸の孤島」にいるような心細さを感じたものです。
そうして日本の流行にも、次第に疎くなっていきました。いま「懐かしのヒットソング」のような番組を見ると、その頃流行していた歌やドラマの知識がごっそり抜けていて、「浦島太郎」の気持ちが少し理解できるような気がします。
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それでも毎日はとてもエキサイティングだった
ここまで読んで、「そんな生活は絶対にイヤ!」と思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、慣れない環境で互いに助け合うことで、日本人同士の絆も深まり、未熟だった私は多くのことを学んだように思います。
また、当時の中国は今以上に素朴で底知れないパワーに満ちており、一歩外に出れば、毎日のように驚きや感動(?)に出会うことができました。多分、皆さんもそうなのではないでしょうか。
オーガニック食材、おしゃれなカフェ、綺麗なトイレ、スマホ決済、日本人医師のいるクリニック・・・。欲しいものはほとんど手に入る2026年の中国(上海)。「あの頃の中国で起きた出来事は、実は私の夢だったのではないか」と思うことすらあります。
それでも、当時の少し不便で、少し信じられなくて、少し騒がしかった中国も、私にとっては忘れられない大切な中国です。「戦友」ともいえる当時の仲間と集まると、みなが楽しそうに昔話に花を咲かせる姿が、その何よりの証拠ではないかと思うのです。